【メディア旭川8月号/道新旭川版朝刊令和3年9月9日】

南正剛さんが日展審査員に

美瑛町の陶芸家・南正剛さん
あの歴史ある「日展」審査員に就任!

 美瑛町白金で「皆空窯」を主宰する南正剛さん(68)が改組新第8回日展工芸美術(第4科)の審査員に委嘱され、8月2日、同展事務局から発表された。道内在住作家の少なくとも第4科(工芸美術)の陶磁器作家での審査員は、長い歴史を持つ日展で前例がない“壮挙”で、「まさか私が、その立場になるとは思いませんでした」と南さん。道内陶芸関係者の一人は「北海道の陶芸作家は、都府県で活動する作家に比べ、内向きで消極的に見られがちですが、作品の水準の高さといい、今回の審査員就任は、決してそうでないことを明確に示してくれるものだ」と、わがことのように喜んでいる。

日本の文化芸術の中核を担う「日展」

 日展は、「欧米の国々に肩を並べるために、わが国は産業の育成とともに、芸術文化のレベルアップが必要」と強く主張する明治期の文部官僚の努力によって、1907(明治40)年に開催された「第1回文部省展」(文展)を礎とする公設展覧会が前身。

 以来、時代の流れに沿って、「帝展」「新文展」「日展」と名称を変えつつ、昭和27年にそれまでの日本画と西洋画、彫刻に、美術工芸分野が新たに加わり、さらに戦後の昭和48年、総合美術展となっている。

 民間団体の社団法人日展となったのは昭和58年で、その後、平成12年に内閣府から移行認定を受け、「公益社団法人日展」に変更。平成14年には、組織改革に伴って「改組 新 第1回日展」と改め、現在に至っている。

 日本には現在、実に多くの美術団体が存在するが、設立以来、何度かの“脱皮”を繰り返しながら、100年を越えてなお、日本美術界の中核として、近代日本美術の発展に寄与してきたのが、まさに「日展」。

今も日展会員には、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書―それぞれの分野で日本を代表する作家たちが名を連ね、美術関係者のみならず、多くの日本人に一目も二目も置かれる存在になっている。

15年、17年に「日展特選」を受賞

 そんな歴史も権威もある日展の審査員に就任――。美術界に縁のない人には、それがどれほどの意味を持つものなのか、理解しがたいと思うが、内情を知る人によると、「最低でも30年以上にわたって、質の高い制作活動を続け、その上で、運も味方してくれないと、なかなか委嘱を受けられるものではない」という。

 事実、南さんのこれまでの歩みを振り返ると、そうした“選定基準”に十二分に適うものだ。

 札幌出身の南さんが、愛知県立瀬戸窯業高等学校陶芸専攻科卒業後、瀬戸市に「皆空窯」を開き、その「皆空窯」を美瑛町内の現在地に移したのが1983年。以来、やはり陶芸家の妻、泉さんとともに、陶芸とのまさに“血のにじむ”悪戦苦闘が続いた。

 30歳代後半に日展出品を始めたが、当初は落選続き。念願の初入選は1994年、42歳のときで、この年から実に11年連続で「日展入選」を果たした。

 何といっても誇らしいのは、2015年、17年に出品した「氷裂」シリーズの2作品が、堂々の特選に輝いたことだ。これは、厳寒期の屋外で釉薬中の水分を凍らせて出る文様をそのまま焼き付けた独特の味わいを持つ作品で、この作品を以って、国内の多くの陶芸家に「北の美瑛に南あり!」を強烈に印象づけた。

「若い人たちの励みになれば―」

 道内で日展を中心に制作活動を続ける作家はそう多くなく、自身「まあ、はぐれものですよ」と笑って見せたが、今回の日展審査員の委嘱決定は、そんな30年近くに及ぶ “日展挑戦の歩み”が、まさに名実ともに認められたことを意味するが、そんな南さんは早くも「次」を見据えている。

 美瑛町教育委員会との共催で定期的に自身の工房を開放して続けている小学生対象の「こども陶芸教室」と、そうした取組みの中から生まれ今年9回目を数える「こども陶芸展inびえい」それぞれの一層の充実で、「陶芸を通じ、まちづくりに最も求められる人づくりのお手伝いができれば…」と控えめに話す。

 道内では前例のない「日展審査員」となれば、ふつうであれば、つい、驕る気持ちが頭を持ち上げかねないが、「うちの奥さんに、『稲穂は実るほど、頭を下げるっていうでしょう』と、早速、釘をさされました」と苦笑い。多くのの子どもたちに「好きな事は諦めず継続する事が大事」と知ってもらうことができれば、それに優る喜びはありません」。

 「日展審査員委嘱」を重く受け止め、緊張感を持って誠心誠意審査に当たらせていただきます。地元のこどもたちはもちろん、これまで皆空窯を支えていただいた多く関係者の皆様ともこの事実を共有させていただきたいと思っております。

【道新旭川版朝刊令和3年9月9日】